今から100年前というと、1921年ですから大正10年。
最近は長寿も進み、国内に100歳以上の人が昨年9月の時点で、8万人いらっしゃるそうです。
日本経済を支えている企業ではどうかというと、100年間生き残っている会社、一般的には「百年企業」と呼んでいますが、これは意外と少なく、確率的には0.03パーセントという数字があります。なんと小数点第2位という少なさです。
駅弁業者の中にも「百年企業」は約50社ほどありますが、更に狭めて100年続いている駅弁となるとどうでしょうか?
パッと思い浮かぶのは、東海軒(静岡)や東華軒(小田原)の「たいめし」。源(富山)の「ます寿司」。上野(宮島口)の「あなご飯」。松川弁当(米沢)「鯉弁当」。そして大船軒(大船)の「サンドウイッチ」というところでしょうか。
今日の話題は、この中から大船軒のサンドイッチです。
実は、筆者は生まれも育ちも鎌倉。そして最寄り駅は大船なので、大船軒の駅弁は子供の頃から慣れ親しんだ味なのです。
特に「鯵の押寿司」と「サンドウイッチ」の2種類は本当によく食べました。
ここでちょっと苦言なのですが、この2種類の駅弁。今では小さくなりすぎです。
食材費と販売価格の関係で、このようになってしまったのは理解できなくもないのですが、昔を知る者にとっては、ビックリするほど小さくなってしまいました。
見るたびに、あの小ささに哀しくなってしまいます。
大船軒のサンドイッチの美味しさは、すごく柔らかくフワフワ感のあるパン。熟成された伝統のハム。そしてバターベースの三者がそれぞれ手を取り合った結果の味と言えましょう。
特にハムは、地元鎌倉の鎌倉ハム。国内のクラシックホテルや、昭和4年にドイツの飛行船「ツェッペリン号」が日本へ寄港した際に、その機内食に「kamakura Ham」として採用されたほどのもの。
明治32年、日本で最初に駅弁としてサンドイッチを発売したのが大船軒。
この時に使用した自家製ハムの評判が高く、当時の食料品取扱商社からハムの注文が多く寄せられ、その結果としてハム製造部門を独立させたのが、現在の鎌倉ハム富岡商会になります。
画像1左上は、大正13年の掛紙で定価は40銭。当時の省線電車の初乗り運賃が5銭ですから、その8倍。現在のJR東日本の初乗り運賃は150円なので、感覚的には1200円程度ということでしょうか。かなり高めな印象です。
続いて画像1右上は大正14年12月、左下は昭和3年4月で定価は5銭値下がりして35銭になっています。右下は昭和4年2月。
画像2の左は、昭和2年8月の掛紙です。かなり洒落たデザインで、食堂車からの夏の車窓を描いたもの。窓の外に広がる海は大船軒の地元、鎌倉海岸をイメージしたものと思われます。手前にはサンドイッチの友であるコーヒーが置かれ、その右には花が生けられていますが、昔の食堂車の各テーブルには、このように花が生けられていたものです。
右は昭和12年4月の掛紙。富士山を模った窓の中には相模湾周辺の海水浴場や観光名所、東海道、横須賀、江ノ電という鉄道路線、また観光道路なども描かれた優れた鳥瞰図です。
画像3左は大正13年7月の掛紙。アールデコを意識したデザインで、大船軒の掛紙の中でベストスリーに入るもの。社内でも評価が高かったと見え、近年になってこの掛紙を復刻(画像右)して使用しています。
画像4は昭和14年10月の掛紙。右側欄外に「昭和十三年三月十八日 横須賀鎮守府検閲済」の表記が入っていますが、これは相模湾沿岸の地図を用いたためであり、防諜上の理由から軍の検閲が必要だったのでしょう。先に紹介した昭和12年の掛紙には入っていないことから、昭和12年12月から始まった日中戦争が影響しているものと思われます。
100年以上も、美味しさが受け継がれている大船軒のサンドイッチ。
残念ながら味を直接お届けすることはできませんが、味とともに駅弁の顔である掛紙デザインの素晴らしさは、お伝えできたものと思います。