常磐線土浦駅の駅弁屋3軒

上野から常磐線普通電車に乗れば、1時間ちょっとで着く土浦。
琵琶湖に次いで、日本で2番目に大きな湖である霞ヶ浦観光の拠点であり、茨城県南部の中心都市でもあります。

その土浦駅では、今は駅弁販売はされていませんが、過去には地元業者3社が鎬を削った駅弁激戦区の駅であったことは、あまり知られていない事実です。

画像1 左:説田 右:山本

画像2 富久善

土浦駅は、明治28年(1895)11月に日本鉄道土浦線の駅として開業。
その約3年後の明治32年2月に説田が最初の構内営業者として営業をを開始、その後(正確には不明であるが明治33年頃)山本弁当店、明治35年に富久善が続きます。

画像3は、昭和2年(1927)の土浦駅前の地図ですが、これにより戦前の駅弁業者3社の位置関係を知ることができます。
左端に上下に貫いているのが常磐線で、上方が上野方面、下方が水戸方面になります。
説田は赤枠で示した場所で、駅から最も離れていました。
富久善は緑で囲った場所で、駅の正面から延びるメインストリートに面しています。地元では名が通った料理屋であったことから、この立地も頷けます。
そして駅に最も近く、駅弁事業者として立地に恵まれていたのが山本で、青枠の場所になります。

画像3 昭和2年土浦駅前(赤枠:説田、緑枠:富久善、青枠:山本)

画像4は、戦後の昭和32年(1957)の地図になり、右端を上下に貫く常磐線は上方が水戸方面、下方が上野方面となり、画像3の地図とは上下が逆になっています。
この図で注目されるのは、青枠で示した山本が移転している点で、以前は駅前の好立地であったのが若干ですが遠くなり、敷地も扱い難い不整形になっています。
そして、戦前に山本が居た駅前の区画には緑色で示した富久善が進出しています。
富久善の、戦前からあるメインストリートに面した本店は、そのまま残しており2店態勢になっています。
この駅前店は、後にのれん分けを行い「富久善分店」を名乗り、駅弁の調整はこちらの分店が担うようになります。
これらの動きは、おそらく戦後復興の区画整理事業が関係しているものと思われます。
赤枠の説田は、戦前と変わりはありませんでした。

画像4 昭和32年土浦駅前(赤枠:説田、緑枠:富久善、青枠:山本)

画像5は、現在の土浦駅前になります。
駅前は1990年代に行われた市街地再開発事業により大きく姿を変え、この事業に伴い説田と富久善本店が同地から撤退しています。
地図を見ればわかるように、現在の土浦市役所本庁舎の場所に、かつての所在地が取り込まれています。
富久善の駅弁事業者であった分店は、東日本大震災(2011年3月)により、建物が影響を受け休業状態でありましたが、その後一時期再開したものの、2012年2月頃に廃業となり、現在は駐車場となっています。

画像5 現在の土浦駅前

山本が、いつ頃に廃業したのかは不明ですが、昭和47年(1972)の掛紙を確認しています。
また、所在した跡地を確認すると、廃業後に建てられた建物がかなり老朽化している(画像6)ことから、少なくとも廃業後、数十年が経過していると考えられます。
現在残されている掛紙の数量を見ても、山本が最も少なく(特に戦後)、その辺に営業規模の小ささが現れているのかも知れません。

画像6

説田は、先に紹介したように土浦駅で最初の駅弁販売業者ですが、駅弁で鰻丼を最初に販売した業者とも言われています。
日本画の巨匠横山大観は、常磐線を利用する時には、説田の鰻丼を贔屓にしていたことで有名です。
説田は段階的に営業規模を縮小しており、駅弁販売が不振になった後は主軸を駅蕎麦(立食い)に移していましたが、それも平成13年(2001)頃に撤退しています。
現在、説田の子孫の方は土浦市郊外に住まわれ、食品とは異なる事業を展開されています。

3社がひしめき合っていた土浦駅弁では、地元霞ヶ浦の名産わかさぎを使った「わかさぎ弁当」があり、また同じ霞ヶ浦産の鰻を使った「鰻丼」など、土浦の味を楽しむ名物駅弁が幾つもあっただけに、社会の波の結果とは言え、1社も残らず全ての業者が撤退してしまったことは、返す返すも残念なことです。