牡蠣

12月になり寒くなると、牡蠣のシーズンを迎えた季節を感じます。
ですが、牡蠣というのは食べられない人も多いので、牡蠣料理で宴会を設けようとすると、参加者に「牡蠣は食べられますか?」と確認をしなければならず、けっこう気を使う食べ物ではあります。

代表的な食べ方に、
貝 焼 殻のまま炭火にかけて焼いたもの
生牡蠣 レモン汁を垂すと美味
酢牡蠣
牡蠣鍋 味付けは複数ありますが、味噌味が一般的
牡蠣飯
があります。

そのような牡蠣ですが、日本人の間で食用とされた始まりは古く、今から8,000年程前の縄文時代早期には盛んに食べられていたことが知られていますし、新しい時代になると奈良時代の平城宮(奈良の都)から、「蠣一籠」と書かれた木簡(木の札に文字が書かれた物)が出土していますから、奈良時代には贈答品として用いられていたことがわかります。
また、1430年に記された『看聞日記』には、室町幕府6代将軍の足利義教が皇族である貞成親王へ様々な「美物」(美味しいもの)を贈答した中に、「牡蠣」が含まれていたことが記されています。
もちろん、これらの牡蠣は天然物でしたが、江戸時代の1673年になると、画像1に示す安芸国草津(現在の広島市西区)において養殖に成功し、大量生産が可能になりました。

 

画像1

画像2が江戸時代の1799年に出版された『日本山海名産図絵』に描かれた、広島における牡蠣の養殖風景です。海中に建てられた「ひびだて」と呼ばれる竹にビッシリと牡蠣が付き、それを収穫する様子が描かれています。

画像2

このように、日本人にとって古くから食されてきた牡蠣ですが、駅弁となると意外と新しく昭和の時代も戦後のことになります。
国鉄本社において構内営業を担当していた田崎乃武雄氏は、昭和39年時点で牡蠣を使用した駅弁は、石北本線遠軽駅のサロマ湖産牡蠣をフライにし飯に載せ特製タレをかけたもの、紀勢本線尾鷲駅の「おわせ弁当」のおかずの牡蠣フライ、そして山陽本線広島駅の「かき飯」の3種類のみであったと記録しています。

画像3 広島駅「かきめし」

ここで不思議に思うのは、田崎氏の記録には牡蠣駅弁として著名な根室本線厚岸駅の「かきめし」が含まれていないことです。
この駅弁については「昭和35年発売」とか「昭和38年発売」とする諸説を目にすることがありますが、これらは誤りで少なくとも昭和30年代には発売されていなかったものと考えられます。
その理由として、先にあげた田崎氏による記録と、それ以外の昭和30年代の構内営業各種資料にも、厚岸駅の「かきめし」が確認できないことをあげることができます。
厚岸駅の「かきめし」は、昭和40年以降に発売されたものと考えるのが合理的と言えます。

冬の味覚、牡蠣。
筆者は好物なので、カキフライ、 酢牡蠣、殻付きの牡蠣にレモン汁を垂らして食することが多いのですが、駅弁では弁当という性格上から多彩な調理法を採用することが難しく、味付けご飯の上に煮牡蠣を乗せたもの一択というのが現状です。
今年も来月から、東京、大阪、福岡、熊本で毎年恒例の大規模駅弁大会が始まります。
きっと売り場には、例年のように数種類の牡蠣弁当が並ぶことと思いますが、数千年前の昔から日本人の食を彩ってきたことを想い描きながら牡蠣弁当を食べるのも、食文化の歴史を体験する一コマとしてオツなものだと思いますが、いかがでしょうか。