画像1は、大正15年7月16日付け『福井新聞』(福井県内で発行されている県域新聞)に掲載された、鉄道省敦賀運輸事務所管内で販売されていた駅弁品評会を報じた記事。
画像では記事が読み難いので、以下に内容を記しますが、マイクロフィルムから起こしているため、一部に判読不明な文字が含まれています。
「汽車弁当は
福井駅のが第一番
他管に比べると見劣る
十四日敦賀運輸事務所で管内各駅の立売営業者より各種構内立売品を取り寄せ、名鉄当局から係り官出張し来つて石畑営業主任や同所内各担主任及び関係駅長立会の上厳密なる検査を施行したがその成績は左の通りで当日参考の為に取り寄せた他管内の名古屋、米原、金澤駅の同品に比較すると甚だしく見劣りし、殊に米品の如きは雲泥の差あり、また香味や副菜物の配列なども、まだまだ田舎の山盛式で●●の点が多々あり研究の余地充分にあると
上弁当、一等福井二等敦賀三等小濵四等今庄
並弁当、一等福井二等今庄三等小濵(敦賀は品切)
因にこの成績は単に敦賀管内のみの順位であると」
こうした駅弁品評会は各所で行われていたらしく、地方新聞を丹念に見ていくと、それを報じた記事に出くわすことがあります。
例えば『福岡日々新聞』大正7年10月19日には、九州鉄道管理局内全域の駅弁品評会を行い、上記の記事と同様に順位をつけています。
このような駅弁品評会が各地で盛んに行われたのは、大家である鉄道側の責任として、駅弁の品質を一定の水準に保つ方向性を持っていたからでしょう。
例えば、『東京朝日新聞』大正15年12月7日の記事には、
「大正13年には各鉄道管理局で駅弁の抜打の品質検査を実施し、粗悪品には厳重な注意を行う一方、東京鉄道管理局では一万余枚の駅弁のアンケートを乗客に配布し、品質、販売方法の苦情をきいた。その結果によると、土地の名産を入れることや季節のものを入れるようにと、副食物に対する希望が多く、また駅の一ヶ所に販売が集中するので買えないなどいう意見も出た」
と記されています。
また、筆者は大正時代後半から昭和戦前期にかけての鉄道省運輸局旅客課で作成された文書群を調査したことがありますが、その中には旅客からの駅弁および駅弁事業者への苦情が多く綴じられていました。
その中で一番目に付いたのは、当時の衛生事情を反映し、駅弁の腐敗に対するものでしたが、その他では貧弱な中身に対する苦情、売子に対する苦情も認められました。
これらの苦情は、購入者から鉄道省へ直接手紙で送られたものですが、こうした苦情に対して課長決裁が多いものの、中には局長決裁にまで上がっているものもありました。
局長と言えば、本省ではほんの一握りの幹部職員ですから、こうしたことからも店子である駅弁業者への指導には、大家として相当な努力をしていたことが読み取れます。
昭和45年1月に駅弁販売価格の上限が撤廃され、事実上の価格自由化が認められる以前は、大家である鉄道側からの厳しい価格統制などが行われていました。
この価格統制の背景には、低所得者でも購入できる水準という意味も持たされていたので、社会に優しい対応でありましたし、また幕の内弁当では、中身についても最低ラインが示されており、乗客への給食の視点から極めて厳しく指導されていました。
大家である鉄道側が、店子である駅弁事業者を統制していた様子について、幾つかの事例を紹介してきましたが、これらを通して大家は店子に対して単に軒下を貸すだけではなく、積極的に営業に関わり、構内営業という乗客へのサービスに対する責任を負っていたことがわかります。