北海道旭川から稚内へ向う宗谷本線。その途中に名寄駅があります。
今は、宗谷本線の途中駅にすぎませんが、かつては名寄本線(平成元年5月廃止)、深名線(平成7年9月廃止)という2路線の乗換駅となっていました。
このうち、名寄本線は名寄から東に向い、興部でオホーツク海に出ると海沿いに南下、中湧別から西に曲がり、石北本線遠軽へ至る路線で、大正10年に全線開通しています。路線長138.1kmを測りましたが、このうち途中の興部と渚滑の2駅で駅弁販売が行われていました。
名寄本線は「本線」とは名が付くものの、実態は地方ローカル線であったことから、販売されていた駅弁は無名に近いものがあり、昭和50年代から平成初期にかけて多数出版された駅弁ガイドブックでも、取り上げられることはほとんどありませんでした。
販売していたのは興部駅の構内営業を行っていた米田で、大正13年5月に札幌鉄道局長の許可を受けています。
米田は、明治時代から上興部で駅逓(旅人の宿泊や、隣の駅逓までの荷物を運搬する馬を提供)の管理を生業としていましたが、大正4年に同地に郵便局が出来ると、重要な仕事の一つであった郵便物の逓送が無くなり、次いで名寄本線が開通すると駅逓そのものが廃止となったことから、菓子屋へと転業。そして先に記したように、駅構内営業へと進出していきます。
現在、駅弁愛好家の間で米田の駅弁は興部駅のものと理解されていますが、実は興部駅での販売は短く、創業当初から長きにわたり上興部駅で販売されていました。
上興部駅から、興部駅へ移転したのは昭和36年11月のことで、移転の理由は昭和37年5月1日から運行が開始された、名寄本線初の急行である「紋別」が、上興部駅は通過という情報を得たからで、隣駅で急行停車駅ともなる西興部駅(西興部村)への移転を考えたものの、既に過疎化が始まっていたことから、この地区の中心的な町である興部町に所在する興部駅への移転となったものです。
某有名駅弁大会の本では、米田が昭和37年に駅弁事業を廃業して興部へ引っ越したことになっていますが、そのような事は全くなく、販路を求めて上興部から興部へ移転したのです。
新たな販路を求めて、構内営業を移転するのは、他の駅でも見ることが出来る一つの手法でした。
現在までに米田の駅弁が確認できたのは、「幕の内弁当」「やまべずし」「すし」「帆立しめじ弁当」で、このうち「やまべずし」は、昭和2年9月10日の「北海タイムズ」(現北海道新聞)によれば、同年に開催された「北海道・樺太名産品投票」の水産加工品部門で入選しています。年代的に見ると、おそらく「やまべずし」の駅弁第一号が、米田だったと思われます。
上の画像は「帆立しめじ弁当」のスケッチですが、これは帆立貝の身をほぐしたものを醤油ベースで味付けしたご飯と一緒に炊き込み、その上にしめじと帆立貝を乗せた素朴なものです。いかにもローカル線の駅弁という感じに仕上がっています。
発売開始時期については定かではありませんが、昭和50年初頭には販売が確認されているものの、昭和45〜47年の時刻表の特殊弁当欄には掲載が見られないことから、昭和48・49年頃の発売開始であったと思われます。
興部駅での駅弁立売の様子はNHKが製作した「思いでの鉄路」の中で見ることができます。
同番組では積雪のある冬場の様子が映し出されていますが、ホームには2人の立売人がおり、列車の到着と同時にかなりの賑わいを見せていたことがわかります。