最近は、8月になると中国産の松茸がスーパーに並びますが、連日30数度まで上がる暑さの中で、秋の味覚である松茸を楽しむ気にならないのは、私だけではないでしょう。
江戸の昔には「初鰹」という、味覚で季節を先取りする風習がありましたが、あれは季節の中でいかに初物を手するかを競うものなので、夏の松茸のように、季節感を無視したものとは意味が違います。
8月の松茸は、せっかちな現代の象徴であるのかも知れません。
世界中を見回しても、日本人ほど松茸で季節を感じた人は居ないでしょう。
今から約1300年ほど前の奈良時代に編纂された『万葉集』に
「高松の この峰も狭(せ)に 笠立てて
満ち盛りたる 秋の香りのよさ」
という句が残されています。
読みやすく現代文に直すと、
「高円山の峰に、ところ狭しと松茸が生え、今が盛りと、秋の香りを解き放っている」
となります。
ここで言う「高松」というのは、今の高円山のことで、当時の都である平城京に立てば東の方角に見える山になります。
その高円山には松茸がたくさん生え、山全体が香しい松茸の匂いに包まれていたのでしょう。
松茸と言えば、今ではほとんど死語になってしまった「松茸狩り」。
一部観光客相手の松茸狩りは残っているようですが、誰もが気軽に出来ることではありません。
日本で松茸が撃滅したのは昭和20年代末〜30年代初頭のことで、それ以前には、秋の余暇の楽しみの一つとして、松茸狩りが広く行われていました。
今でも当時を知る人に話しを聞くと、山に鍋やら調理道具を持ち込み、採れたての松茸を入れたすき焼きをしたり、持ち切れないほどの松茸を採ったそうです。
松茸狩りは、古くから身分に関係なく、伝統的に行われていた行楽の一つだったのです。
今ではすっかり高級食材になってしまった松茸ですが、ホトトギス派の俳人高浜虚子が、このような句を残しています。
「取り敢えず 松茸飯を 焚くとせん」
これは、虚子が昭和9年に詠ったものですが、「お客の歓待をしたいけど、持ち合わせ(お金)が無いから、取り敢えず松茸ご飯を炊くことにしよう」というものです。
この句から、戦前は松茸が気軽に食べられるものだったことがわかります。
さて、駅弁の松茸ですが、いつ頃から販売が始まったのかは、まだ調べがついていませんが、昭和30年代後半には仙台、上田、塩尻、京都、広島、阿波池田など、幾つもの駅で売られています。
その多くが10〜11月の季節限定ですが、仙台駅の伯養軒だけが通年販売を行っていました。当時の記録によれば、伯養軒は地元松島産の松茸を1年分確保し、それを冷凍会社が冷凍保存していたことから、年間を通じて「松たけ弁当」の調整が可能となっていました。
松茸は季節に食べたいものですが、冷凍技術を活用する、先進的な試みであったと言えます。
昭和の終り頃には、北は一ノ関から西は三原、阿波池田まで15の駅で松茸を食材とした駅弁が販売されていました。
このうち、松茸で名高い丹波では福知山線篠山口、山陰本線園部、綾部の3駅で販売があり、西京物と呼ぶ範囲にまで広げると、これに京都と大津の2駅が加わりますから合計5駅。すなわち全体の3分の1を占めることになり、「松茸は京丹波」と言われる面目躍如というところ。
いま見てきたように、もともとは季節を感じる食材として、誰もが食していた松茸ですが、すっかり高級食材になってしまった今では、我家の食卓には、もう何年も上がっていません。
このような時代ですから、せめて松茸の入った駅弁を食べて、季節を感じたいものと思います。