日露戦争の結果、日本はロシアが敷設した東清鉄道南満州支線のうち、長春・大連間を割譲されました。 そして、それを経営するための会社として、明治39年11月に日本の国策会社的性格を持って設立されたのが「満鉄」と呼ばれた、南満州鉄道です。
戦前を知る人や、鉄道ファンの間では「満鉄」と言えば、最初に出てくる言葉は「あじあ号」でしょう。(画像1、2)
「あじあ号」は、満鉄が世界に誇った特急列車で、昭和9年(1934)の運転開始から、同18年(1843)の戦争激化による運転休止に至るまで、大連から新京、後には哈爾濱まで運転区間を延長し、最高速度130キロを誇るスピードはもちろんのこと、車内設備やサービスをも含めて世界最高水準の列車の一つとして知られていました。
また、特筆されるのは荷物車を除く全ての車両に冷房装置(当時の呼称は「空気調和設備」)を搭載していたことであり、夏でも窓を開ける必要が無かったことです。
煤煙の出る蒸気機関車牽引列車で、盛夏であっても窓を開ける必要が無いことは、現代の私たちからは想像もできないほど画期的で、素晴らしい出来事でした。
昭和8年8月の『満州支那汽車時間表』を見ると、大連を8時55分に発車した哈爾濱行き「あじあ」号は、大石橋11時45分、鞍山12時36分、奉天13時44分、四平街15時57分、新京17時20分、徳京18時42分、雙城堡20時34分に停車し、終着の哈爾濱には21時30分の到着です。
長距離を走る「あじあ号」には、給食設備として食堂車が連結されており、各種和洋料理が提供され、国際連絡列車の性格もあったことから、ロシア人ウェイトレスが乗務していました。
「あじあ号」に限らず満鉄の優等列車には食堂車が連結されていましたが、一方で食堂車を連結しない中・長距離列車も多く、そうした列車に乗る人々の給食として主要駅では駅弁が売られていました。
画像4は「あじあ号」も停車していた、満鉄一の幹線であった連京線の主要駅である奉天駅で販売されていた駅弁掛紙です。 調整者は、左下に記された大星ホテル。
当時、奉天で最も有名で格式が高かった宿泊施設は、満鉄直営の奉天ヤマトホテルでした。
このヤマトホテルというのは、●●ヤマトホテルという名前(例えば大連ヤマトホテルなど)で、満鉄沿線に展開された今で言うところのホテルチェーン。
大星ホテルは、それよりも格下のホテルになりますが、それでも奉天の主要有名ホテルの一つであり、駅近くに立地する大規模ホテル(画像5)として、多くの旅行者に利用されていました。
その大星ホテルが奉天駅の構内営業も行っており、そこで販売されたのが画像の「上等御弁当」で、定価は50銭。
この掛紙は昭和戦前期のものなので、内地では上等弁当が30銭でしたから、旅行者から見ると「満州の駅弁は、随分と高いな」と思われていたことでしょう。
掛紙の図案に選ばれたのは、奉天北陵の正門。
実は「北陵」と言うのは俗称で、正式には「昭陵」と呼び、清の初代皇帝とその妃が眠る陵墓です。
北陵は2004年にユネスコの世界遺産に指定されましたが、それ以前から奉天を代表する観光名所の一つで、そうしたことから掛紙の図案に選ばれたものと思われます。
多色刷りの美しい掛紙で、内地からの旅行者には、よい記念品になったのではないでしょうか。
もともと中国には駅弁という食文化は無く、日系企業である南満州鉄道が日本から移入したものですが、そのような背景を考えると、中国人に駅弁がどのように映ったのか興味があるところです。
満鉄各駅で販売された各種掛紙を見ても、日本語表記ばかりなので、そもそも中国人を販売対象として、全く考えていなかったのかも知れません。