昭和30年代の帰省と駅弁

例年なら、間もなく年末恒例の帰省ラッシュが始まる時期ですが、今年はコロナの影響でいつもと違う風景になりそうです。
都会で生活する人が、懐かしい故郷へと帰る帰省は、お盆と年末・年始の年に2回。
こうした帰省ラッシュが風物詩となったのは戦後のことで、その背景には戦後の復興と、それに伴う高度経済成長があります。
そして、それを支えていたのが、今では死語となってしまった「集団就職」。中学、或いは高校卒業と同時に、地方から大阪、名古屋、東京などの都会へと働きに出た若者達の存在です。
今のように労働環境が整備されていなかった時代には、彼らにとって長期間の休暇は、お盆と年末・年始しかありませんでした。
当時の国鉄にとって、帰省する彼らに加え、季節労働者として都会で働く人々をも輸送するこの時期は、全国から使える車両を総動員し、膨大な本数の臨時列車を設定し対応する状態でした。

新幹線が無かった時代、移動の手段は長距離の急行と鈍行列車が主な手段。
もちろん快適な特急列車も走っていましたが、今とは違い、誰もが気軽に乗れるものではありませんでしたし、寝台車の利用も同じことで、大部分の人はリクライニングもできない、90度に固定された椅子で、長距離の旅行を強いられていたのです。
在来線における長距離の移動は、必然的に長時間にわたる乗車になりますから、車中での給食が必要となります。

集団就職のデータを見ると、東北地方出身者は東京・埼玉・神奈川を中心とした首都圏に大部分が就職していますが、九州地方の出身者は大阪を中心とした関西圏が主体ではあるものの、名古屋の中京圏、そして首都圏まで広範囲に就職しています。
そこで、ここでは特に移動距離が長い首都圏と中京圏に就職した彼らが、九州方面に帰省することを仮定して、車中での給食について考えてみることにしました。

画像1・2は、昭和39年の時刻表から九州方面へ向う長距離列車のページです。乗車するのは多くの人が利用した、金額的に利用しやすい急行の2等座席車とします。
時刻表中の紫枠は朝食時間帯、赤枠は昼食時間帯、青枠は夕食時間帯をそれぞれ示しています。

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名古屋発の場合は、朝発の「さつま」で昼食と夕食、午後発の「桜島」「霧島」「雲仙・西海」で夕食と朝食、夜発の「阿蘇」と「高千穂」でも夕食と朝食を、それぞれ車内で食べたものと思われます。
「高千穂」の場合は20時5分の発車なので、乗車前に夕食を済ませていることも考えられますが、当時の多客期は混雑のために乗車の数時間前から駅で並ぶことが普通だったので、乗車後の給食を想定しています。
このように名古屋駅発の場合は、乗車時間から平均的に2食の車内給食があったものと思われます。

これが東京発ではどうでしょうか?
午前発の「桜島」「霧島」で昼食、夕食、朝食の3食、午後発の「雲仙・西海」で夕食と朝食。同じ午後発の「高千穂」のばあいは夕食と朝食に加え、日豊本線の宮崎方面まで乗車すると昼食が加わり3食の給食となります。

さて、これらの給食ですが、列車によっては食堂車が連結されていることが、時刻表に記された記号からわかりますが、多くの人は食堂車よりも安価で手頃な価格だった駅弁が頼りでした。
画像3は、昭和38年の東海道本線静岡駅の「まくのうち弁当」の掛紙で定価は100円。
そして画像4は日豊本線中津駅の「まくの内お弁当」の掛紙で定価は150円です。
これらのことから、昭和30年代後半の幕の内弁当の定価が100〜150円であることがわかります。

画像3

 

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先に、一部の急行列車には給食施設として食堂車が連結されていたことを記しましたが、利用者にとって最も気になる料理の値段はどの程度だったのでしょうか?
昭和37年の例ですが、和朝食が150円。昼食が200円と300円。夕食となると200〜600円もしていることから、駅弁と比較すると高価であったことがわかります。
このことを反映してか、一部の優等列車を除き食堂車の利用者は少なく、営業5社中3社が赤字で、残りの2社も黒字ギリギリの状態でした。
また、食堂車を連結している急行列車は少なく、特に多客期に運転された臨時列車には連結が無いため、これらの乗客は必然的に駅弁を食べるしか方法がなかったのです。

今では、東京から博多まで新幹線で5時間。鹿児島までも6時間半しかかかりませんが、昭和30年代の急行列車では、それぞれ約20時間と約27時間を要していました。
その間、ずっと列車に乗りっ放しですから、車内では本や雑誌を読み、お菓子を食べ、お腹が空いたら駅弁を何回も食べて、そして寝るだけの車中。

いま見てきたように、当時は今まで以上に旅行者にとって駅弁の存在が重要であったことがわかります。
列車が駅に着けば、ホームに駅弁の立売人が何人も出て駅弁を売る姿があり、あちこちの列車の窓から立売人を呼ぶ手招きや掛け声。そして遠くの車両からは、ホームを足早に駅弁売りの元へ駆け寄る人。
今では、絶対に見ることができない駅弁黄金時代の風景が、この時代には日本中あちこちで見られました。