蕎麦

駅で蕎麦と言えば、先ず間違いなく十人中十人がスタンド式の立食い蕎麦を思い浮かべると思いますが、実は、それ以外にも数はとても少ないのですが、駅弁としての蕎麦がありました。
例えば、長万部駅の「もりそば」や長野駅の「天ざるそば」、原ノ町駅の「いなり天ざる」。仙台駅には季節弁当でしたが「茶そばずし」がありました。

もともと日本人と蕎麦の付き合いは長く、今から1300年ほど前の奈良時代には、「飢饉に備えて蕎麦を植えろ」というお触れが、朝廷から出されていることからも分かります。ただし、この頃の蕎麦の食べ方は現代のように細長い麺状をしたものではなく、団子状の今で言うところの「蕎麦掻き」でした。
私達が今食べている麺状の蕎麦は、今から450年ほど前の戦国時代の終わり頃に出てきたようで、長野県木曽郡大桑村の定勝寺に伝わる天正2年(1574)の記録が最も古いものとして知られています。包丁で細長く切ることから「蕎麦切り」と呼ばれていました。

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画像1は、函館本線長万部駅で構内営業を行っていた合田待合所の「もりそば」。
昭和戦前期の掛紙で、車内で蕎麦を食べる男女を描いた、デザイン的に優れた作品です。合田は昭和6年(1931)に、日本で最初に蕎麦駅弁を発売。使用している蕎麦粉は、もちろん地元北海道十勝産のもの。

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画像2は、ビュフェとうきょう博多支店が販売した「道中割子そば 天ざる」。
描かれているのは江戸時代の「二八蕎麦」の屋台です。ここで言うところの「二八」とは、よく言われる繋ぎと蕎麦粉の割合ではなく、値段、すなわち掛け算で二×八=一六文の売値を示しています。

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画像3は、天明3年(1783)に出版された『花の御江戸』という本に掲載されている上野山下の二八蕎麦屋の店先ですが、看板に大きく「二八」と九九による値段が書かれているところは、画像2の掛紙と同じです。このような値段表記は、江戸の蕎麦屋の特徴でもありました。

蕎麦の基本的な食べ方と言えば「かけ」か「ざる」でしょう。「かけ」は器の中になみなみと入った汁に蕎麦を入れたものですから当然ながら駅弁には不向きで、これは立食い蕎麦向け。
駅弁では「ざる」と称するものが主流になります。ですが、実際には駅弁の容器として「ざる」は使用されていないので、汁に浸かっていない蕎麦の総称として使用されているにすぎません。
では、なぜ「ざる蕎麦」と言うのでしょうか?今、蕎麦の作り方と言えば、煮えたぎった湯の中に蕎麦を入れ、数分ほど茹でてから湯切りをして器に入れるのが基本ですが、初期の頃は違っていたのです。
麺状の「蕎麦切り」が出始めた頃の調理方法は、蕎麦を茹でてから「ざる」にすくい上げ、「ぬるま湯」でサッと洗い、その後に再び「ざる」に入れて蒸したのです。
この頃の蕎麦は、まだ繋ぎを使っていなかったので、茹で過ぎるとブツブツに切れてしまうことから茹で時間を極力短くして、最後に「ざる」に入れて蒸して仕上げていたのです。ですから蕎麦と「ざる」は、切っても切れない関係であったと言えます。
この江戸時代初期に行われていた「ざる」を使って蒸すという調理道具の「ざる」が、名残として形を変え、蕎麦を盛る「ざる」になったというわけです。

駅弁の商品名としても使われている「ざる蕎麦」の「ざる」。そのルーツを辿っていけば、400も前の蕎麦の調理法にまで行き着くことができるとは、意外な結末でした。