我孫子駅「うなぎ丼」

先日は、土用の丑の日でした。
皆さんの中にも、鰻を食された方も多かったのではないでしょうか。
それにしても、鰻の値段の高さには閉口してしまいますね。
国産はおろか、中国産にしても「えっ!こんな値段!!」と、思わず二度見どころか三度見。
実は私、中学生時代は学校の寮に入っていました。
昭和52〜54年にかけてです。
その寮では、夕食に時々ですが鰻丼が出たくらいですから、あの頃は寮でも提供できるくらいの値段だったのだと思います。
もちろん、冷凍の輸入品だったとは思いますが・・・。

この高騰著しい鰻が、各地の駅弁から姿を消して、30年近くは経つでしょうか?
今では、ごく限られた駅でしか見ることができなくなってしまいました。

保存技術が発達していなかった時代において、駅弁の食材は、地元産を使うことを基本としていました。
その点から、日本中どこででも入手が容易で、しかも簡単に数量が確保できた鰻は、駅弁に好都合な食材だったのです。
これが、あちこちの駅で鰻丼が販売されていた所以です。

画像は、常磐線我孫子駅の構内営業者であった弥生軒が昭和5年9月に販売した「うなぎ丼」の掛紙。
芦の茂った水辺に、捕獲した鰻を入れる籠を描き、鰻丼を演出しています。
この弥生軒は、放浪画家として有名な山下清が働いていた弁当屋としても有名で、当時の駅弁屋の様子が、彼の日記に克明に記されています。

その弥生軒がある我孫子駅の南、数百メートルの距離に広がるのが手賀沼。
昭和30〜40年代の干拓で、今では東西6キロ、南北800メートル程に小さくなってしまいましたが、元はその倍近くもある大きな沼でした。
沼の東端は、川で利根川と繋がっています。

この手賀沼産の鰻は、江戸時代には「江戸の鰻の8割は手賀沼産」と言われており、その後も昭和40年代中頃までは「東京の鰻相場を左右する」と言われるほどの漁獲量を誇っていたと伝えられています。

この我孫子駅弥生軒の「うなぎ丼」も、目と鼻の先で、しかも豊富な漁獲量を誇る手賀沼産を使用していました。
地元で獲れた鰻を捌き、駅弁として販売する。
輸入品に慣れてしまった今となっては、随分と贅沢な話しに思えますが、昔はこれが当たり前で、特別なことではありませんでした。
価格は50銭。
上等弁当が35銭、街中の蕎麦屋さんでもり蕎麦10銭の時代です。