筆者は、生まれも育ちも鎌倉。
小学校に入学した昭和46(1971)年から卒業した昭和52(1977)年3月まで、自宅近くの湘南モノレールの駅からモノレールに乗り、大船駅で国鉄横須賀線に乗換えて鎌倉駅まで通学していました。
あの頃の大船駅には、モノレール連絡通路入口脇に1ヶ所、改札口近くの改札外に1ヶ所、改札内コンコースに1ヶ所、あとは3・4番線ホームに1ヶ所、大船軒の駅弁売店がありました。
当時の大船駅のホームは、1・2番線が東海道線上り。3番線が横須賀線上り、4番線が東海道線下り、5番線が東海道線下りの通過列車、6番線が横須賀線下りという並びで、7・8番線の根岸線ホームは、昭和48(1973)年に増設されました。
もちろんホームでの立売りも盛んで、東海道線下りの4番線で行っていました。
駅弁売りの他に、夏にはアイスコーヒーの立売りもあり、「べんとう〜」の他に「冷たいアイスコーヒー」という掛け声がホームに響き渡り、急行列車のみならず、普通列車でもよく売れていたのを覚えています。
そして、筆者がよく食べた駅弁も大船軒の「鯵の押寿し」と「サンドイッチ」で、両方とも、私のソウルフード的なもの。
その大船軒が、JR東日本の子会社に吸収合併されブランドとしては残ったものの、地元の製造工場は閉鎖され、埼玉県川口市の工場で作られることになってしまいました。
実は先日、久しぶりに「鯵の押寿し」を食べたのですが、ある意味において衝撃的。
なぜか、硬くてパサパサ感がある鯵・・・。
いやいや、これは大船軒の「鯵の押寿し」じゃないでしょ。
全く別の食べ物で、ひどく落胆してしまいました。
名前は残っても、大船軒のDNAは残っていないようです。
そう言えば、以前にお聞きしたところ大船軒には、祖父、父親、息子と三代にわたって職員となった方が数人いらっしゃいました。
おそらく、そのような人達が大船軒の伝統と味を守っていらしたのでしょう。
その大船軒があった大船駅の開業は明治21年11月1日。
東海道線の駅としての開業ですが、その設置の理由には、翌22年6月16日に開通した横須賀線との分岐駅としての性格が大きいものでした。
その大船駅で大船軒が駅弁販売を開始したのは、明治31年5月6日付けで鉄道作業局運輸部長から認可を受けてのことでした。
初代社長の名は富岡周蔵。
周蔵は、認可と同時に横浜在住のイギリス人カティスからハムの製造法を学び、富岡ハム(鎌倉ハムと称する)を設立、明治32年2月からサンドイッチを10銭で発売しています。
また、サンドイッチと並んで大船軒の代表的な駅弁となった「鯵の押寿し」は、近年は大正2年4月の発売とするものが多いのですが、昭和50年頃までは大正4年とされており、どちらが正しいのか・・・。
画像の1〜6は、戦前のサンドイッチの掛紙。
大正13年にはシンプルな1と、ビジュアルな2の両方が使われていますが、2は復刻掛紙として近年使われているもので、現代の我々にも馴染み深いもの。アール・ヌーヴォー調の秀作です。
4は、食堂車の車内から窓越しに外を見た構図で、美味しさを醸し出す良い掛紙に仕上がっています。
7から12は、ご飯物系の掛紙です。
9の「鯛めし」は大船軒のイメージでは無いのですが、地元相模湾は近海物の宝庫なので外せないラインナップであったらしく、昭和30年代中頃まで販売していました。
大船軒の掛紙で特徴的なのは、7、8、12に見るような鳥瞰図を取り入れたもので、山側から相模湾を通して富士山を描くパターンと、逆に相模湾側から山側を描く2方向があります。
特に12の昭和7年「上等御弁当」の掛紙は、その完成形とも言える秀作だと思います。
11は昭和初期の「湘南スケッチ」という掛紙シリーズからの1枚で、「由比ヶ浜の海水浴風景」を描いたもの。
シリーズ「其八」と、通し番号が付けられています。
このように大船軒の掛紙を見ていくと、弁当のみではなく、掛紙もとても大切に企画していたことがわかります。
おそらく、弁当のみではなく、掛紙をも含んでの駅弁文化とした考えがあったのでしょう。
地元企業としての老舗駅弁業者であった大船軒が、会社として消滅してしまったのは返す返すも残念であり、ショックな出来事でした。
なお、創業家の大船軒の流れを汲む会社は、新たな別名会社として大船駅周辺において不動産事業を行っております。