品川駅常磐軒、新宿駅田中屋、立川駅中村亭、八王子駅玉川亭。
これらは近年、駅弁事業から撤退した東京の駅弁業者です。
そして、それらが撤退した後には、JR東日本のグループ会社が広範囲な地域の駅弁を販売する売店を設置し、売り上げを伸ばしています。
これらの動きは「ご当地駅弁から、金太郎飴駅弁(どこを切っても同じという意味)」への転換を意味し、消費者にとっては各地の様々な駅弁が買えるという利便性がある一方で、駅弁本来の姿であるご当地性を失った形であるとも言えます。
冒頭で上げた品川、新宿、立川、八王子駅の駅弁は、駅弁に興味がある方なら記憶の片隅に残っていることと思いますが、今回ご紹介する中央線国分寺駅の駅弁をリアルタイムの記憶として残されている方はいらっしゃらないと思います。
「忘れられた東京の駅弁」とした所以です。
現在の中央線の前身である甲武鉄道が国分寺に駅を開設したのは、新宿・立川間の延伸開業と同じ明治22年4月11日。
当初の計画では、この付近の駅設置場所は小金井村付近となっていたのですが、それに対して国分寺在住の有力者が、国分寺の方が小金井よりも府中や所沢、川越に近く交通の要としての立地が良いことをアピールし、誘致に成功したという経緯があります。
そして、開業から5年後の明治27年には、国分寺から川越鉄道(現西武鉄道国分寺線)が久米川(現東村山)まで開業し、その翌年には川越まで全通したことにより、本駅が東京西部郊外におけるターミナル駅という性格を持つようになりました。
こうして甲武鉄道、川越鉄道の接続駅となり利用客の見込める駅となった国分寺では、その開始時期は不明ですが駅弁の販売が始まります。
事業者は榎本平蔵。
榎本は大正10年に国分寺村に電話が開通すると、高額な電話を最初に申し込んだ39名のうちの1人であることから、国分寺の有力者の1人であったと考えられます。
画像1は、昭和13年に出版された『カメラと機関車』に収録された、大正4年4月21日に撮影された国分寺駅の列車到着風景ですが、列車と共に駅弁立売の姿も写された貴重な写真です。
列車の脇には、販売台を抱えた立売り2人が駅名標の右脇に写り、ホーム上にはお茶か何かを入れた販売台(駅名標の左脇)が置かれています。
画像2は、その立売り業者であった榎本平蔵が使用した寿司の駅弁掛紙です。
榎本は、この他に上等弁当とサンドイッチも扱っています。
単色ではありますが、下部には江戸時代から続く桜の名所である玉川上水の桜並木を、上部には府中の大国魂神社をそれぞれ描き、また付近の名産品として甘藷と茶を紹介しています。
後者の茶は、狭山茶のことと思われます。
国分寺駅は、新宿や立川駅の駅弁販売駅からも近いため、中央線の延伸に伴っても需要の増加が認められなかったと考えられ、昭和5年に駅弁販売から撤退し、雑貨類を扱う構内営業のみに切り替えられたようです。
このことは、昭和2年や4年の駅弁販売駅一覧には国分寺駅の名が見られるのに対し、昭和5年以降には見当たらないことから確認できます。
国分寺駅の駅弁は、戦前の短い間だけ販売されていた、今となっては東京の忘れられた駅弁なのです。