新潟コシヒカリ弁当

今から30年ほど前の1993年(平成5)に、現代の日本で米騒動が起きるという、にわかに信じ難いことがありました。
俗に言う「平成の米騒動」です。
原因となったのは、80年ぶりという大冷夏と長梅雨の影響で、稲の成育が壊滅的に悪く、収穫量が前年比74.1パーセントにまで落ち込んだことによります。

若い方には信じられないかも知れませんが、スーパーにも、米屋にも売るべき米が並ばず、米を求めて日本中で人々が右往左往の毎日。
とうとう政府は、外国米を259万トン輸入して対処したほど。
実は筆者も、この騒動の時にカリフォルニア米とタイ米を購入したのですが、正直な話し、日本の米に慣れ親しんでしまうと、輸入米はお世辞にも「美味しい」とは言えないほどで、「まぁ、無いよりはマシ」という感じで、なんとか飢えずに乗り切ることができました。

サンドイッチを除けば、米は駅弁とは切っても切れない関係にありますし、それどころか、美味しい駅弁として評価される大きなポイントの一つに、ご飯の美味しさがあると言えます。
そのため、どの調整元も米の選定から炊き上げまでに、かなりの力を入れています。
例えば、米は単一品種か、ブレンド米か。
単一品種なら、多くの種類の中からどれを選ぶのか?
また、ブレンド米だったならば、ブレンドする米の種類、割合をどうするか?
ある調整元の話では、毎年、新米の時期になると試食を繰り返しながら、自分たちの駅弁にもっとも相応しい米を選定しているそうです。

画像は、新潟駅三新軒の調整による「新潟コシヒカリ弁当」の掛紙。

今でこそ、駅弁の名前に米の品種名を使用するものが他にもありますが、その走りとなったのが、この「コシヒカリ弁当」。

コシヒカリという米は、1956年に(昭和31)命名登録されたもので、正式には水稲農林100号と呼びます。
源流を辿ると1944年(昭和19)に、農林22号を母に、農林1号を父として新潟県農業試験場で交配し誕生したものですが、第二次世界大戦の影響を受け開発が中止。
それが再開されたのは、戦後、1946年(昭和21)のことでした。
再開後に収穫された雑種の種の一部が福井県農林試験場へ送られ、そこでも独自に品種改良が続けられます。
そして、そこで誕生した越南17号が新潟県と千葉県で奨励品種として1955年(昭和30)に栽培され、その好結果を受けて農林100号(コシヒカリ)として登録されました。

コシヒカリという名前の意味は「越の国に光りかがやく」という意味で、ここで言う「越の国」は、越前・越中・越後を含んだ古代の「越の国」になります。
新潟県と福井県の両県が開発に関係した品種として、これ以上ピッタリな名前はないでしょう。

コシヒカリは、粘りが強く、甘味があることから人気銘柄となり、2016年には日本の作付面積の、実に36.2パーセントを占めるまでになりました。
特に新潟県魚沼産のコシヒカリは品質が高く、最高値の取引価格を記録しています。

1980年代中頃に「コシヒカリ弁当」が発売される前に、コシヒカリを名乗った駅弁として同じ新潟三新軒の「こしひかり寿司」がありましたが、いずれにせよ米の品種名を駅弁の名前に使用するという、思い切ったネーミングの元祖は新潟三新軒でした。
それだけ、新潟の「コシヒカリ」ブランドに対する、自信の現れだったのでしょう。

ところで、「コシヒカリ弁当」の内容ですが、ロングセラーなだけに御菜も刻々と変化しており、現在は豚メンチカツ・焼鮭・海老唐揚・玉子焼・車麸・煮物・鮭巻昆布・しばわかめ・かぐら南蛮味噌・なら漬胡瓜・ゆず大福となっています。
いわゆる「幕の内弁当」の規範に入るものですが、やはり単純な「幕の内弁当」とするよりは「コシヒカリ弁当」とした方が食指が動くというもの。

今年も新米が市場に出揃う季節になりました。駅弁の命として米にこだわっている調整元では、今頃は、きっと米の選定に頭を悩ましていることと思います。