特急列車から食堂車が消滅してかなりの年月が経ち、食堂車を利用したことがない人も多くいらっしゃると思います。
私が子供の頃の昭和40年代は、まだまだ特急列車の威厳が高く、多くの人は急行を使い、特急に乗るのはちょっとした特別感がありました。
昭和40年代後半になると、L特急や短距離の特急列車が増え、それに伴い特急列車の威厳がどんどん低下するわけですが、それでも中距離以上を走る特急には、たいてい食堂車が連結され営業をしていたものです。
今回の話題となる戦前は、長距離移動であっても、庶民の多くは普通列車を利用していた時代。
もちろん、急行列車は主要路線に走ってはいましたが、特急列車は「富士」「櫻」「燕」「鴎」の4種のみでした。
画像1は、その少ない特急列車の「燕」の乗客に配られた食堂車の営業案内です。
「燕」は、昭和5年に1・2・3等の各等級を連結した特急として東京・神戸間に登場しました。
「燕」が運転を開始した昭和5年10月の時刻表で見ると、東京駅を9時に出発し、神戸駅には18時に到着しています。
この「燕」の食堂車を担当していたのは「みかど洋食堂」で、名前からもわかるとおり食堂車では洋食のみが供されていました。
ただし、当時は今とは違い誰もが日常的に洋食を食べていたわけではなく、特に一般庶民の中には、洋食に馴染みのない人も多くいました。
こうした社会状況があったことから、食堂車営業案内の裏には画像2のような駅弁を取り次ぐ案内が記されていたのです。
これを見ると、先ず営業案内として食堂車は「洋食」であることを赤字で強調し、利用者に注意を促しています。
そして洋食を望まない人には、国府津駅の「弁当」、または「小鯵のお寿し」を取り次ぐと記しています。
国府津駅の駅弁と言えば、明治21年から駅弁を手がけている東華軒。
チラシには、弁当は30銭と書かれていますから、その値段から上等弁当であることが特定できます。
画像3は、昭和6年の「御辨當」の掛紙で上等の書き込みはありませんが、「金三拾銭」の表示から上等弁当であることがわかり、これが「燕」で取り次がれていた駅弁と、同じものであることがわかります。
画像4は、チラシでは「小鯵のお寿し」と記されている「小鯵おし寿司」。
東華軒の鯵寿司は、明治36年に発売が開始されたもので、鯵の押し寿司としては最古参の伝統を今に誇ります。
さて、営業案内には「横浜駅着迄にボーイを伺はせますから御申付け下さいませ」。 と記されています。
9時に東京駅を出発した「燕」が横浜駅に到着するのは9時26分ですから、その間に乗客から注文を取りまとめるのですから、けっこう忙しかったものと想像されます。
恐らく、横浜駅到着時に駅係員に国府津駅で積込む弁当の種類と数量を伝え、それを受けた横浜駅の係員は、鉄道電話により国府津駅へ注文内容を伝達したものと考えられます。
「燕」の国府津駅着は10時10分。 30秒停車の間に弁当の積込作業です。
10時10分に昼食用弁当の積込作業ということに、「もっと遅い時間に停車する駅で積込めば、注文も楽なのに・・・」と考えられる方がいらっしゃるかも知れません。
ですが、「燕」が国府津の次ぎに停車するのは名古屋で、お昼をとっくに過ぎた14時29分。
その間、「燕」はノンストップで走り続けていたのです。
ですから、横浜で注文、国府津で積込というせわしない方法で対処するしか、車内で駅弁を販売する手段がなかったのです。