山下清の命日は1971年(昭和46)7月12日。
今年は没後50年になります。
1980年から97年の間に、83話がフジテレビ系列で放送された『裸の大将放浪記』。
芦屋雁之助扮する山下清が、旅(放浪)の先々で様々な問題に直面し、それを解決するストーリーでしたが、このドラマの放映により、画家山下清の名前は日本の隅々にまで知れ渡ることになりました。
もちろんドラマなので、内容は大部分がフィクションですが、それでも山下が放浪の画家であり、知能障害を持っていたにもかかわらず、天才的なちぎり絵作家であったことを世に知らしめるには、十分な内容でした。
その山下が20代前半の一時期ですが、駅弁屋で働いていたことがあります。
場所は、常磐線我孫子駅の弥生軒。
弥生軒は、今では駅弁事業から撤退していますが、駅蕎麦の営業は続けており「唐揚そば」の店として、度々マスコミにも取り上げられています。
画像1が我孫子駅ホームの店舗で、入口には山下が働いていたことを紹介するパネル(画像2)が掛けられています。
弥生軒で販売されていた駅弁の掛紙に、山下の作品が使われていたことは、駅弁好きの間ではよく知られたことで、2009年(平成21)の駅弁大会では復刻駅弁として使用されたこともあります。
この掛紙は、四季それぞれに異なる作品を使うという発想で新たに描いてもらい、昭和38年から使用が始まりましたが、最後の冬用を描く前に山下が他界してしまったことから、4種は揃わず、3種で終わってしまいました。
おそらく、有名画家が駅弁のためにオリジナルで描いた作品は、この掛紙だけではないかと思われます。
画像3は1回目のもので、山下が働いていた当時の我孫子駅の様子を描いたもの。
我孫子駅は常磐線と成田線の分岐駅であることから、山下も直進する線路(汽車が描かれている)と、右上に分岐して行く線路を区別して描いています。
画像4は3回目のもので、我孫子駅近く(徒歩圏内)の手賀沼公園の様子を描いたもの。
ところで、近年、ネットを中心に山下清と弥生軒の関係を紹介した複数の記事に接する機会があったのですが、そこで気がついたのが、山下と弥生軒の関係について、一種の都市伝説みたいなものがあるということ。
具体的には、働き場所として弥生軒を選んだ理由について、「行商の人から、弥生軒で働いていれば(弁当屋なので)食うことには困らない」と言われ、最初から弥生軒で働くことを目指していたとするもの。
また、そこで働いていた期間について「昭和17年から5年間」と語られることが多く、画像2で示す弥生軒店頭のパネルでも、そのように記されています。
実際のところ、山下が弥生軒で働くようになったのは偶然のことで、弥生軒にたどり着く前に柏の床屋、利根川近くの大きな屋敷、取手の鍛冶屋、おもちゃ屋、呉服屋、自転車屋などで断られています。
そして、最後の自転車屋で「我孫子の弁当屋は忙しいから(中略)あそこの弁当屋で使ってもらえるだろう」と言われたことが、山下が残した日記の一文から知ることができます。
つまり、弥生軒に行ったのは行商人の紹介ではなく、自転車屋の勧めであったわけで、その理由も「食うに困らない弁当屋」ではなく、「弁当屋は忙しいから」だったのです。
また、山下が弥生軒で働いた期間ですが、昭和17〜18年5月の間に、馬橋の魚屋、我孫子の弁当屋、馬橋の妾宅の下男が確認されることから、昭和17年に弥生軒(日記では「我孫子の弁当屋」)で働き始めたことは、ほぼ間違いないものと思われます。
それでは、山下はいつまで弥生軒に居たのでしょうか?
一般的に言われる5年間(弥生軒のパネルも同じ)だとすると、昭和22年になりますが、山下は同年6月に石神井の脳病院(今で言う精神科)に入院しており、入院前までは母宅に身を寄せていたことがわかっています。
そして、入院2ヶ月後の8月には病院を脱走し、以後は埼玉、栃木、千葉県内を放浪しているので、昭和22年に弥生軒に居たとは考えられません。
実は、その前年の日記に山下は興味深いことを書き残しているのです。
昭和21年1月は新宿の母宅で過ごしているのですが、何を思ったのか再び弥生軒に働きに出かけます。ところが弥生軒では「辛抱できないから、清は使わないから家へ帰れ」と、断られたと記しているのです。
この断られた日付は不明ですが、3月に入ると職業安定所で紹介された進駐軍の仕事に行き、そこを1日でクビになっているので、その間の出来事になります。
進駐軍の仕事をクビになった後は、千葉県内を放浪、4月に発疹チフスにかかり強制入院となりますが、回復後の6月以降は再び関東各地を放浪し、10月に入ると千葉県内の農家で臨時雇いになりますが、農繁期を過ぎると解雇され、中旬に馬橋の妾宅で下男として働くようになります。
このように弥生軒では昭和21年1〜2月頃に採用を断られていることから、弥生軒で働いた最後は昭和20年12月に馬橋の問屋(新たく)から弥生軒に移った時が最後であると山下の行動履歴から考えられ、山下が弥生軒で働いた期間を、昭和17年から5年間というのは有り得ないことと考えられます。
恐らく、どこかの時点で、誰かの手により間違った行動履歴が記され、それが孫引きを繰り返された結果、弥生軒と山下の関係が都市伝説のように語られるようになったものと考えられます。
ちなみに、弥生軒での山下の仕事ですが、掃除を始めとする雑用のほかに、駅で販売していたアイスクリームの容器にラベルを貼る作業や大根の皮むきなどの下処理、駅弁の紐掛けなど、直接調理に関わること以外の作業を行っていたことが、日記から知ることができます。