2月に入って最初の午の日には、全国の稲荷神社で「初午祭」(はつうまさい)が開かれます。
今回は、それにちなんで稲荷寿司の話題をお届けいたしましょう。
農耕や食物の神様、商売繁盛の神様として「お稲荷さん」と呼ばれ親しまれているのが稲荷神社。
大は京都の伏見稲荷大社から、小は街の中にひっそりとたたずむ社まで、日本全国そこかしこに見られます。
その、お稲荷さんの使い役はキツネ。
皆さんも、お稲荷さんの参道にキツネが並んでいるのを見たことがあるでしょう。
キツネは穀物を食い荒すネズミを捕食したり、山里に姿を現すことから、お稲荷さんの使いになったと言われています。
その、お稲荷さんから連想されるのが油揚げ。
実際に油揚げがキツネの好物であったのかは知りませんが、それを使った寿司が稲荷寿司と呼ばれるものです。
今日の話しのテーマである稲荷寿司が、いつ頃から人々の口に入っていたのかは不明ですが、江戸時代の天保(1830〜1843年)の頃に、名古屋辺りで作り出されたとも言われています。
江戸では、少し遅く嘉永年間(1848〜1853年)に日本橋十軒店(現在の日本橋室町3丁目付近)の次郎吉が、赤鳥居を描いた行灯をかけて商いを始めた頃から流行したとされています。
画像1は『近世商賈尽狂歌合』(嘉永5年刊)から稲荷寿司の立売を描いたもの。
キツネを描いた幟(のぼり)を立て、何本かの稲荷寿司を並べ、まな板の上には1本の稲荷寿司と包丁が置かれています。
この頃の稲荷寿司は、今のように俵型の小型のものではなく、長方形の油揚げを用い、その中にすし飯を入れたもので、売る時には細長い稲荷寿司を包丁で切っていたのです。
描かれた稲荷寿司を見ると、今とは違い、細長い形をしているのがよく分かると思います。
値段は1本16文、半分8文、1切れ4文と書かれています。
このように江戸時代に庶民の間で手軽に食べられていた稲荷寿司は、今で言うファーストフードのような存在だったわけです。
江戸時代のファーストフード、稲荷寿司が明治になって駅弁に取り入れられたのは必然のことでしたが、それが「いつ」「どこで」となると正確なことは分かりません。
戦前の多くの寿司駅弁が「寿司」として売られていました。折りの中に海苔巻や太巻き、稲荷寿司などが、様々な組合せで詰め合わされており、そのことが最初に駅弁に稲荷寿司を取り入れたことの特定を難しくしているのです。
画像2は、戦前の数少ない「いなり寿し」表記の掛紙で、山陽本線糸崎駅浜吉商店のもの。調製印が押されていませんが昭和戦前期のものと推定されます。図案は、森をバックにした鳥居とキツネで、典型的な稲荷寿司の図案です。
画像3は、稲荷寿司では全国的に知名度が高い、東海道本線豊橋駅の壺屋弁当部の「稲荷寿し」。
同社は、明治22年6月1日付で鉄道局長の承認を得て構内営業を開始しているのですが、同社によると明治時代末には稲荷寿司の販売を開始したということですから、稲荷寿司単独の駅弁としては早いものと言えます。
この壺屋の稲荷寿司は、ちょっと濃いめの甘辛いタレによる味付けが絶妙。
実は、正直な話し筆者は稲荷寿司自体があまり好みではないのですが、壺屋の稲荷寿司だけは別。新幹線で移動の時は、時間があればわざわざ「こだま」に乗り、豊橋駅で買い求めるほど、ここの稲荷寿司はよく食べます。
昭和38年の記録ですが、豊橋駅で1日に販売される駅弁8000本のうち、約半数が稲荷寿司であったというから驚きです。
まさに「キング・オブ・稲荷寿司」。
最近は、稲荷寿司の親戚とでも言える、ちょっと変わった「きつね寿し」が神戸駅淡路屋から販売されています。
画像4がそれで、稲荷寿司のように油揚げの中にすし飯が入っているわけではなく、見てのとおり、小さな2色の油揚げを飯の上に市松模様に敷き詰めたもの。
このビジュアル感は大した発想だと思います。実はこの駅弁、昨年(2020年)の京王百貨店駅弁大会でのヒット商品で、連日午前中には完売というものでした。
あまりによく売れるので、何人ものお客様に選ばれた理由を尋ねたところ、いただいたのは全く予想外の言葉。
「だって市松模様が綺麗でしょ」
そうです。何の判断基準を持たないお客様の購買欲をそそったのは、見た目のビジュアル感だったのです。
昭和49年に出版された『駅弁の旅』の中で瓜生忠夫氏は、「いなりずしの、ほとんどの駅のものが、市販ものより劣る(しばしば著しく劣る)のはおもしろくない。どこででも手に入るものであればこそ、市販ものに負けぬくふうと努力を駅弁はやらなければばらぬ」と記しています。
まさに瓜生氏の述べるとおりで、その問いに答えているのが、今回ご紹介した2つの駅弁。
壺屋「稲荷寿し」と、淡路屋「きつね寿し」ではないでしょうか。