汽車土瓶はどこで作っていた?

小学校に呼ばれて話しをすることが年に数回あります。主な対象は5年生と6年生。
私が子育てから離れて大分時間が経つので、今どきの小学生事情に疎いというのもありますが、それでも「えーっ!マジか・・・」と思うことが幾つも。
そのような驚きの一つに、急須を知らない子供のなんと多いこと!
急須と言っても特別なものではなくて、日本茶を入れるあの急須。
そのような子供たちに聞くと、家でのお茶はペットボトル。1.5リットル入りの大きなボトルが、いつも冷蔵庫に入っているのだそうです。
だから、お茶を飲むことはペットボトルから注ぐことで、茶葉を入れた急須は必要ないわけですね。
これでは、急須を知らなくても不思議はありません。

それと同じことが駅弁でもあります。
今や、駅弁と一緒に買うお茶はペットボトルですが、40、50年前ならば、急須(土瓶)の形を模したポリエチレン容器でしたし、60年前でしたら「汽車土瓶」と呼ばれていた文字通りの土瓶入りのお茶。
画像1に様々なタイプの汽車土瓶の中から、3種をご紹介いたします。

画像1

鉄道駅構内におけるお茶の販売は、明治22年に静岡駅の駅弁業者であった三盛軒(現東海軒)が販売したのが最初で、この時は信楽焼の土瓶を使用したことが同社の社史である『東海軒繁盛記』に記されています。
その後、鉄道の延伸とともに全国的でお茶が販売されるようになると、西日本を中心に多くの汽車土瓶生産地が現れます。
もともと日本は焼物の生産が盛んな国で、全国的に有名な産地だけでも益子(栃木県)や信楽(滋賀県)、瀬戸(愛知県)、美濃(岐阜県)、有田(佐賀県)などを上げることができます。
そして、そのうちの一つや二つの名前は、皆さんも聞いたことがあるのではないでしょうか。
特に瀬戸は全国的に知られ、焼物の代名詞として「瀬戸モノ」と呼ばれているほどです。

これらの産地では、汽車土瓶の生産を始める明治時代以前から日常で使う茶碗や湯飲みなどを大量に作っていたので、安価に、しかも多量に必要とした汽車土瓶の注文に対しても、容易に対応することが出来たのです。
例えば、信楽の障害者施設である滋賀県立信楽寮の窯業施設では、昭和28年に月産3万個もの汽車土瓶を生産していました。

画像2は、汽車土瓶の主要な生産地を13ヶ所示してありますが、これ意外にも少量生産の小規模な生産地が幾つもありましたし、今ではすっかり忘れ去られてしまった生産地が、地元に残る古い記録などにより新たに発見されることもあります。

画像2

1:会津本郷(福島県)、2:益子(栃木県)、3:瀬戸(愛知県)、4:美濃(岐阜県)、5:常滑(愛知県)、6:信楽(滋賀県)、7:丹波(兵庫県)、8:八鹿(兵庫県)、9:砥部(愛媛県)、10:篠栗(福岡県)、11:野間皿山(福岡県)、12:白石(佐賀県)、13:有田(佐賀県)