9月8日に、エリザベス2世女王がお亡くなりになり、世界中がその話題一色に塗りつぶされました。
そして、41億もの人々が国葬の中継をテレビで、あるいはインターネットで視聴したと推定されています。
女王は、昭和50年(1975)に来日されていますが、来日中の国内移動に際しては鉄道も利用され、近畿日本鉄道と新幹線に乗車。
特に新幹線への乗車は、自らが希望されていたと伝えられています。
話しはだいぶ遡り、戦前の大正11年(1922)のことになりますが、この年、後に英国国王となるエドワード8世が、皇太子時代に来日しています。
この時期はまだ日英同盟が存続しており、日本人もイギリスへの理解が深かったことから、国を挙げての大歓迎であったことが、残されている記録類から知ることができます。
画像は、皇太子来日の際に全国の駅弁事業者が使用した共通デザインの掛紙です。
当時は、現在の構内営業中央会のような構内営業者が集る全国組織が無かったことから、鉄道省が主体となって行ったものと考えられます。
掛紙のデザインは、英国旗と日章旗を交互に配し、中央に王冠、その周囲に英国の国花であるバラと日本の桜を散らしています。
そして、下部には奉迎文として歓迎の言葉を日英両文で記し、上部には英国国旗と国家を印刷した絵葉書の販売広告までも掲載されており、時代を感じさせます。
この過剰演出とも言える掛紙1枚を見ても、当時の日本がどれだけ英国皇太子の来日を歓迎していたのかがわかります。
駅弁掛紙を解説した市販の書籍において、皇太子の来日目的が「平和記念東京博覧会に出席のため」と記したものがありますが、これは事実ではなく、大正5年(1916)に裕仁皇太子(後の昭和天皇)が英国を訪問したことへの答礼が目的の来日でした。
掛紙に「平和記念東京博覧会」の広告が印刷されていることから、誤った解釈が生まれたものと思われますが、実はこの記念掛紙を数多く見ると、広告の種類にも複数(例えば「ライオン煉歯磨」「イカリリース」「読売新聞」「国民新聞」など)が存在することがわかります。
ですから、この部分に入る広告と皇太子の来日とは全く関係がないのです。
ただし、エドワード8世は来日7日目の4月18日午前10時半から1時間ほど博覧会に出かけられています。
しかし、これは滞在中に組まれた視察行事の1つにしか過ぎませんでした。
さて、画像の掛紙を見ると左下に「浜頓別 高橋待合所」と、調整業者名が印刷されています。
浜頓別と言えばオホーツク海に面した、かつての旧宗谷本線(現宗谷本線開通後は天北線となり平成元年に廃線)の駅(画像2)であり、北の端のイメージが強い駅。
大正14年4月の時刻表で見ると、浜頓別駅には1日で上下合わせて9本の列車が発着するのみですから、駅弁の販売量は少数だったと思われ、そのような駅の掛紙にまで本掛紙が使用されていたことに、大きな驚きを感じます。
この掛紙が共通規格で全国の駅弁事業者が使用したことは先に記しましたが、現在までに共通規格の掛紙を使用したのは、百数十年になる駅弁の歴史の中で、たったの2回しかありません。
その1回目が今回紹介したもので、その2回目については次回ご紹介することにいたしましょう。