鯛の駅弁いろいろ

「桜鯛」と言う言葉があるくらい、4月の魚と言えば鯛。
「桜鯛」とは、3〜5月に獲れるマダイのことで、この時期になるとマダイの顔が鮮やかなピンク色になり、花びらを散らしたような斑点が出るため、それを「桜」に見立て「桜鯛」と呼ぶようになりました。

歴史的に私達の祖先である縄文時代の人達も、盛んに鯛を食べていたことがわかっていますし、奈良時代の『古事記』や『日本書紀』にも鯛に関する記述があります。その頃は、今のように「たい」と言わずに、「たひ」と発音していました。
また、平安時代の『延喜式』には、和泉、伊勢、志摩、三河、若狭、丹後、紀伊、讃岐、筑前、肥後の10ヶ国を鯛の産地として記しています。この頃は鮮魚としてよりも、塩漬けにした干物に近い状態にしていたようです。

私達がいだく鯛のイメージは高級魚。
言うなれば「魚の中の王者」といったところでしょうか。
鯛が高級魚の筆頭に上げられるようになったのは江戸時代のことで、武士の祝い事には欠かせない存在でした。
なにしろ江戸湾(東京湾)各所には、幕府のための「生鯛御囲所」を設け、生きた鯛の安定的な確保に努めていたほどです。

鯛と山椒 歌川広重 天保3〜4年頃

江戸時代に高級魚として扱われていた鯛が、明治時代以降、駅弁の材料として使われるようになり、それが現在まで続いています。

おそらく、最初に鯛に着目した駅弁は山陽鉄道(現山陽本線)姫路駅「まねき」が、明治22年に発売した「上等弁当」だと思われ、お菜の一品として鯛の塩焼きが入っていました。
また、駅弁研究家として著名だった林順信氏は、その著書『駅弁歳時記』の中で「戦前の上等弁当には尾頭付小鯛が入っていた」と自身の経験を書き残しています。
折詰の中に入る尾頭付ですから、おそらく小型のキダイ(レンコダイ)が使われていたものと思われます。
それにしても、駅弁に鯛の尾頭付とは豪勢ですね。
でも、今だったら骨無しの切り身に慣れてしまった人から「食べ難い!」なんて苦情が出てきそうですが・・・。

鯛を使った駅弁の二大勢力は「鯛めし」と「鯛寿司」。
どちらも、それなりの種類が、あちこちで販売されています。

このうち「鯛めし」を初めて駅弁として商品化したのが、東海道本線静岡駅の東海軒であることは、この記事をご覧の駅弁好きの方なら、ご存知のことと思います。
明治30年の発売開始当初は、地元で多く獲れたアマダイを使用していました。
実は、アマダイはタイ科ではなく、便宜上総称としての鯛、よく言われるところの「あやかり鯛」の一つ。

東海軒「鯛飯」明治30年代

東海軒での「鯛めし」成功後、瞬く間に駅弁としての「鯛めし」が関東から西で広がり、駅弁業界での一大勢力圏を築くとともに、それぞれの中でオリジナリティ豊かな「鯛めし」が作られています。
「ご当地、鯛めし食べ比べ」などという企画も、面白そうではありませんか。

一方の「鯛寿司」。
「鯛寿司」として古くから知られているのは、北陸本線敦賀駅塩荘の「元祖鯛鮨」と紀勢本線和歌山駅和歌山水了軒の「小鯛雀寿し」の二つ。
塩荘の「元祖鯛鮨」の発売開始がいつ頃だったのかは定かではありませんが、昭和戦前期の掛紙が知られています。(当時の商品名は「鯛鮨」で「元祖」が付いたのは後年のこと)
以前は、敦賀近海で獲れるキダイ(レンコダイ)を自社で仕入れ加工していたそうですが、現在では加工されたものを仕入れ、社内工場で鮨に仕上げています。

塩荘「鯛鮓」昭和13年

さて、もう一方の古株、和歌山水了軒の「小鯛雀寿し」。
水了軒が「小鯛雀寿し」の販売を始めたのは、南海鉄道(現南海電気鉄道)が和歌山市駅を開業した明治36年のことなので、鯛寿司としては、「元祖鯛鮨」の塩荘より古い可能性が高いと考えられます。

和歌山水了軒「小鯛雀寿し」昭和42年

この「小鯛雀寿し」は根強いファンが多く、駅弁大会でもよく売れる商品の一つです。
小さな長方形の箱で目立たないのですが、けっこうな数量を準備しても、売れ残ることはありません。 「地味なベストセラー」とでも言える商品です。
現在売られている「小鯛雀寿し」はオリジナルの形とは異なり、切身状のものを使用していますが、本来は小鯛1匹で1貫を握るものでした。
1匹で1貫を握った、その姿が雀のようだったので「雀鮨」と名が付いたものです。

駅弁の食材として多く使われる鯛。
古くから、日本人の食生活には欠くことが出来ない、食文化の一つです。