新宿駅田中屋の掛紙から

新宿駅の駅弁と言えば、日本食堂との合弁会社を経て、日本レストランエンタプライズに吸収合併された田中屋。
その田中屋の構内営業の歴史は古く、明治30年頃に日本鉄道から許可を得て営業を始めています。
ネットで公開されている情報の中には、創業を「明治30年」としているものがありますが、田中屋は戦災により古記録の全てを失っており、正確な創業年は不明。しかしながら、2代目店主であった五平が6才の頃には営業していたという記憶を持っていたことから、これを頼りに「明治30年頃」として、前後に含みを持たせたのが、田中屋の公式見解となっています。

画像1

画像1は、その田中屋が昭和5年に「上等御弁当」に使用していた掛紙で、画面を大きく2分し、上には内藤新宿の入口と思われる風景、下には昭和初期の新宿駅を配した絶妙なデザインの掛紙に仕上がっています。

今の新宿駅は、甲州方面へ向う中央線の主要な発着駅ですが、江戸時代には日本橋を起点とする甲州街道最初の宿場町でした。鉄道で例えるならば途中駅みたいなものです。

画像2(赤線が甲州街道)

ただ、当初の甲州街道は新宿ではなく慶長7年(1602)に設けられた高井戸(画像2)が最初の宿場でした。しかし、日本橋〜高井戸間は4里(約16km)と比較的距離が長かったので、そのほぼ中間に元禄12年(1699)新しい宿場を設けたのです。
場所は、今の新宿の繁華街とはちょっとズレた、新宿御苑の北側隣接地一帯(新宿1〜2丁目付近)になります。
今の新宿御苑は江戸時代、信州高遠藩内藤家の中屋敷があった所であり、そこに出来た新しい宿場という意味で、内藤新宿となったと言われています。

さて、時は大きく過ぎて昭和初期。
掛紙に描かているのは、今の東口にあたる駅本屋と駅前広場の様子。
掛紙に見える広場は、現在のスタジオアルタ前にある広場です。そこには当時の人々の生活の足であった市電が3系統(荻窪・月島・岩本町方面)が乗り入れていたので、掛紙にも行き交う市電が描かれています。
これらの位置関係を示したのが画像3の地図になります。

画像3(昭和12年新宿駅周辺)

これは、昭和12年の新宿駅周辺の地図ですが、駅本屋もきちんと表現されているので、掛紙との比較がよくわかるのではないでしょうか。
今の駅本屋は、中央線に平行する形で細長く建てられていますが、当時は方向が90度違い、中央線とは直角な位置関係で建てられていました。その様子は画像4の絵葉書でよくわかると思います。絵葉書では駅本屋の奥に中央線の電車が見えます。

画像4(戦前の新宿駅本屋)

当時の新宿駅周辺が特に現在と大きく異なる様子の1つに、京王電鉄線の新宿駅の位置があります。
京王線の新宿駅と言えば、今なら毎年1月に国内最大規模の駅弁大会が開かれる西口の京王百貨店の地下。
その地下駅から、直上の駅弁大会会場に直接来られる方も多いのではないかと思います。
ですが、戦前の京王線新宿駅の場所は今とは大きく異なり、中央線や山手線を跨ぎ、東口の外れ、今の伊勢丹百貨店本館近くまで延びていたのです。
現在の西口へ移設したのは昭和20年7月のことで、それを地下化したのは昭和38年4月。そして、その上に京王百貨店がオープンしたのは翌39年11月のこと。
蛇足ながら、駅弁大会は昭和41年が第1回でした。

新宿駅の駅弁屋であった田中屋の掛紙。
たった1枚の掛紙から、新宿の歴史を垣間見ることができるのです。