駅弁とかまぼこ

 

 

 

 

 

 

駅弁のおかず、特に幕の内弁当に欠かせない三種の神器と言えば「かまぼこ」「玉子焼き」「焼魚」。
これは伝統的に言われているもので、最近の新しい幕の内弁当では、それらが入らないものも多くなってきています。
今日のお題は、この駅弁版三種の神器の中から「かまぼこ」。

日本人の食文化の中で「かまぼこ」は重要な位置を占めており、正月料理には欠かせない一品であることは、皆さんもよくご存知のはずですし、結婚式の引出物に欠かすことが出来ない地方もあります。
最近でこそ食べることが少なくなった「かまぼこ」ですが、実は日本の食文化の中に密着した存在なのです。

その「かまぼこ」ですが、いつの頃から日本人の口に入っていたのでしょうか?
正直なところ、「かまぼこ」の起源については不明で解ってはいません。
ただ、記録に残るもので一番古いのは、平安時代の久安2年頃(1146)に記された『類聚雑要抄』(るいじゅうぞうようしょう)と言う書物に、永久3年(1115)に開かれた宴会のお膳に「蒲鉾」が乗っていたことが記されています。
このことから、既に12世紀には貴族の間で「かまぼこ」が食べられていたことがわかります。
しかし、この頃の「かまぼこ」は今の「かまぼこ」とは違うものでした。
下の画像は、『類聚雑要抄』に出てくるお膳ですが、赤丸で囲ったものが「かまぼこ」で、「蒲鉾」と記されています。

では、当時の「かまぼこ」とは、どのようなものだったのでしょう?
それを知る史料として、室町時代の大永2年(1528)に記された『宗五大草子』(そうごおおぞうし)が有名で、それによると、ナマズの擂り身を竹に塗り付けて調理したものと言うこと。
つまり、今の「ちくわ」のことで、見た目が「ガマの穂」に似ていることから「蒲鉾」と呼ばれました。
確かに画像を見ると、細長い枝のようなものに付いているのがわかります。

今見るような板の上に乗った「かまぼこ」は、安土桃山時代の後期に存在したらしいことが、『摂戦実録大全』(せっせんじつろくたいぜん)という、宝暦2年(1752)に書かれた戦記本に記されています。
これには「板の上に乗せて焼いた」と書かれていますから、それまでは竹に塗り付けて焼いていたものを、板の上に盛り、それを焼いたのでしょう。この時点で、現在の「かまぼこ」に一歩近付いたと言えます。

普通、我々が「かまぼこ」と言う時には、魚のすり身を板の上に盛って、それを蒸したものを言いますが、この形態のものが出て来たのは、江戸時代の終わり頃で『守貞漫稿 』(もりさだまんこう)という天保8年(1837)〜嘉永6年(1853)にかけて刊行された百科事典には、「今製は三都とも杉板面に魚肉を推し蒸す 」と記されていることから、この頃には現在見られるような板の上で蒸された「かまぼこ」が食されていたことがわかります。

さて、その「かまぼこ」と駅弁の関係ですが、明治20年代の初頭には、おかずの一品として取り入れられていたようです。
と言うのは、明治21年に姫路駅で販売されていた弁当のおかずに「かまぼこ」が記録され、ほぼ同じ時期の宇都宮駅で販売された弁当にも、「かまぼこ」が入れられているのです。

蛇足ですが、過去に小田原駅や高知駅、敦賀駅で「かまぼこ弁当」が販売されていました。
3駅ともに「かまぼこ」の産地として有名な所であり、ご当地物駅弁といった性格の商品ですが、残念ながら今は販売されていないようです。